忘れるということ

忘年会の季節がやってくると、なぜ「忘」年会というのか、ふと疑問に思うことがあります。「忘れる」ということはネガティブなことのようにも感じられます。

誕生日のときは一年間を振り返って、次の一年に繋げようと思いを馳せるにも関わらず、なぜ年末になってその一年を忘れようとするのでしょうか?「忘れる」ということはどういうことなのか、この機に少し考えてみます。


「心」を「亡」くすと書いて忘れる

「忘」という語の漢字の成り立ちを見ると、「心」を「亡」くすと書いて「忘」となります。「亡」は姿が見えなくなるということを意味するので、忘れるということは、心にあったものが見えなくなるということを意味します。

実はもう一つ、「心」と「亡」とからなる漢字があります。それは「忙」です。忙しいということは、いろいろやるべきことが多く重なって、心が虚ろになってどこかに消えてしまったようになることです。

こうしてみると、会社で行うような忘年会は何かおかしなことのようにも思えてきます。「忙」しくて日々心が虚ろになっていく日々の仕事の1年の終わりに、「忘」年会で忘れることによって「心」を二重で「亡」くすということになるからです。ここまで心を亡くしてしまったら、いったい心はどこにあるのでしょうか?

しかし、このように考えながら、別の考えもふと思い浮かんできます。これはもしかしたら、一種の「毒をもって毒を制する」ということなのではないか、と。「忙」という日頃の毒を、それに似た「忘」という毒によって解消しようと、こういうことではないかという気もしてきます。

忘年会の起源をさかのぼると、室町時代の『看聞日記』には既に「としわすれ」という言葉が出てきています。これは、「忘れる」ということのポジティブな一面が昔から見出されてきたということかもしれません。

忘れることの功罪

「忘れる」ということは、もちろん大きな負の側面をもっています。認知症という病気は本人だけでなく、家族やそれを支える様々な人にとって試練となります。最近も若年性アルツハイマー病の患者を主人公とするドラマがありましたが、そこには明るく何気ない日常の中にも、無常観と悲劇的な側面が常在していました。

現代では高度に社会化されており、様々なことを学び覚えることが必要とされていますから、次から次へと忘れてしまうことは社会に適応していく上で大きな痛手となることは間違いありません。

一方で、記憶が人を苦しめることもあり、そういう人にとって「忘れる」ということは救いにもなります。PTSDやヒステリーには過去の体験の記憶が関係していますが、これまで自分に起きたことを全て忘れることなく記憶し続けているとすれば、このような過去の記憶に苦しめられることはもっと増えることでしょう。

「忘」と「記」のせめぎ合い

「忘」という漢字の反対の意味をもつのは「記」ですが、現代は「記」の社会だといえます。スマートフォンをもてば一日の移動の全てが記録され、ネット上の行動は全てデータとして蓄積され、最近ではさらにドライブレコーダーが普及するなど、人々の生活のあらゆる面を「記」録しようという動きが広がっています。

このようなことは、防犯対策やトラブル解決、研究開発、マーケティングなどで様々な問題解決に役立っていますが、一方で様々な問題の原因にもなっています。

例えば、過去に犯罪歴があって更生した人であっても、その情報をすぐに検索されてしまうため、雇用やその他の社会的な面で差別を受け続けるといったことが生じます。いつまでも消えない記録は変化して前に進もうとする人々にとって、重い足かせとなりえます。

2011年のフランスでの裁判をきっかけに広まった「忘れられる権利」は、現代の記録社会の潮流に、プライバシー保護の観点から一石を投じる結果となりました。

「記録すること、記憶することは良いことだ」という発想は、様々な学習が求められ、多くの事柄に記録することが要求される私達の中に根強く入り込んでいます。

しかし、時には「忘れる」ということのポジティブな面に思いを寄せてみても良いのかもしれません。

このようなことを考えながら、試しにSNS上で「忘年会」と検索すると、案の定多くの写真や動画の「記録」が投稿されていました。本当に、「忘れる」ということが難しい世の中になってきたようです。