ソクラテスの「哲学は死の練習」とはどういう意味なのか?

古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、その弟子プラトンが残した対話篇の中でこう語っています。

正しく哲学している人々は死ぬことの練習をしているのだ。(『パイドン』プラトン著・岩田靖夫訳、岩波文庫、1998年、38ページ)


一見してぎょっとするような発言です。哲学が死の練習とは、一体どういうことなのでしょうか?哲学は自殺訓練所のような危険なものと言いたいのでしょうか?

もちろんソクラテスはそういうことを意図していたのではありません。『パイドン』の中でもソクラテスは自殺はすべきでないとはっきりと言っています。

それではどういうことなのかというと、まず、哲学者は「正義とは何か」「幸福とは何か」といった問いについてひたすら考えることで答えを得ようとします。

ひたすら純粋に考えるということは、身体的な欲求に振り回されないということでもあります。身体の欲求に惑わされずに哲学すること、それは思考(魂)と身体を分離させようとすることであり、すなわち死の準備なのだ、というのがソクラテスの説明です。

なお、『パイドン』はプラトン対話篇の中期に当たる作品です。そのためこれはソクラテスというよりもプラトンの考え方と言った方が良いかもしれません。実際に『パイドン』の後段ではプラトンの思想であるイデア論も出てきています。

少し話が逸れましたが、私はこの「哲学は死の練習」という発想に対してある意味で納得しているところがあります。

「生きることと死ぬことは一枚のコインの表と裏である」

私は小学生の時に『ソフィーの世界』を読んで以来、生と死のことはこのように考えています。

生きていることの尊さは自分がいつかは死ぬということを通してはじめて実感できます。自分はある日この世界からいなくなってしまう、だからこそ今を大切に生きようとすることができるのだと思います。

現代の日本は特に死を遠ざける傾向が強いと思います。伝統的に死をケガレとして忌む文化であったことに加えて、病院や高齢者施設に死を押し付けることができ、また医療の発達で平均寿命が伸びたこともあって、日常の中で「死」を目にすることはほとんどなくなりました。

だからこそ、死をタブー視してあまり考えないようにしている人も多いことでしょう。

哲学者はそうしたことはしません。私はなぜ生きているのか、死ぬとはどういうことか、といった問題に向き合って真剣に考えようとするのが哲学の営みです。

それはある意味では死の準備といってもいいかもしれません。哲学者は自分がいつか死ぬということをタブー視することなく考え続けているのですから。

しかし、それは限りある自分の生を大切に生きようとすることでもあります。

死についてタブー視して考えないようにしてきて、病気になってからはじめて生の尊さを知ったという人も多いかもしれません。

哲学することで病気でないうちから自分の生の尊さを実感することができるのだとすれば、1日1日をもう少し大切に生きることもできると思いませんか?