現代は「科学的な態度」に重きを置く社会だといえます。科学的であることはより事実に即しており、より正しいことだとみなされます。
そのため、議論で対立する相手がいた場合に、「科学的でない」ということによって相手の主張を退けようとし、「科学的である」ということによって自己の主張を正当化しようとします。
しかし、科学的である=正しいという発想はそのまま受け入れてしまっても良いのでしょうか?科学的な態度であるとはどういうことなのでしょうか?これについて考えていきます。
心理学・社会学などの社会科学も実際には科学の一分野ではありますが、日常的に私達が「科学」という言葉で理解する内容には含まれていません。まして、歴史学・文学・言語学などの人文諸科学などが含まれるはずもありません。
自然科学だけが「科学」として大きな支持を得ているのです。これはやはり、自然科学から派生して生み出された技術の普及が大きいと言えましょう。交通・電気・通信・機械技術など、誰にとっても目につくような仕方で生活を豊かにしてきたという実績が、「科学」への幅広い層からの信頼に繋がっているのだと考えられます。
また、歴史的には宗教など古くからの権威に対抗するための手段として、科学が機能してきたことも見過ごせない側面です。ガリレオが宗教裁判にかけられたり、ダーウィンの進化論に関して激しく論争が繰り広げられたりしたことは有名です。
現代においては特に国力増強の観点から科学が重視されます。科学がもたらした新技術は戦争の戦い方を大きく変え、また産業革命による生産性の劇的な改善の背景には常に科学的知見の進歩がありました。
中国の科学研究費は現在もアメリカに猛追する勢いで増え続けており(参考 : 経済産業省資料)、自国での科学の発展は国力増強の鍵と見なされています。
科学の英語名である「science」という語は、ラテン語の「scientia」に起源をもち、元々は「体系づけられた知識一般」を指すものでした。「art」と並べられることもありますが、「art」は人間の編み出した知識・技芸を指すのに対して、「science」は自然に関する知識を指します。
「science」が現代の「科学」の意味で用いられるようになったのは、西洋の近代以降です。中世まではキリスト教的な色彩の強いスコラ学が権威を誇っていましたが、ルネサンス・宗教改革を経て、近代では「正しさ」の基盤が揺らいでいました。
フランスの思想家モンテーニュは生涯を通して"Que sais je?"(私は何を知っているのか?)と問い続けましたが、これはその時代のテーマでもありました。
このような時代的要請に対して、見出された方法は二つありました。一つは、自分の"理性"を頼りに数学的に世界を捉え直そうという方法であり、もう一つは"経験"を頼りにより確かな知を積み上げていこうとする方法です。
これは、それぞれ演繹法、帰納法と呼ばれます。
演繹法は、例えば「三角形の内角の和は180度である」という法則から、「三角形Aの内角の和も180度である」という結論を導き出します。
一方、帰納法では例えば「亀Aには甲羅がある」「亀Bにも甲羅がある」という経験的事実から、「すべての亀には甲羅がある」という一般的な法則、仮説を導き出します。
科学は、このうち特に帰納法に立脚した営みです。観察や実験を通じて得られた経験的事実から帰納法によって一般化された仮説を形成し、その仮説を確かめるための実験・検証を行います。
経験的事実 ⇒(帰納法)⇒ 一般的な仮説 ⇒ 実験・検証
科学と呼ばれているものの内実は、このような経験(観察・実験)の積み重ねと帰納法に基づく一連の営みといえます。
科学的な帰納法では、このカラスは黒い、そのカラスも黒い、ということから「全てのカラスは黒い」という一般化された仮説を導き出します。そして、その仮説の正しさを調べるために、カラスA、カラスB、カラスC…と多くのカラスを調べ上げます。調べていき、実際に調べ上げたカラスの全てが黒ければ、その仮説の"確からしさ"は上がっていきます。
しかし、どれほど多くのカラスを調べ上げ、「全てのカラスは黒い」という証拠を積み上げたとしても、確実に正しいとはいえません。どこかに白いカラスがいる可能性は否定できないからです。
20世紀の科学哲学者カール・ポパーは、科学と疑似科学を分けるものとして「反証可能性」を挙げました。つまり、ある主張・仮説が証拠によって反論できる場合には科学であり、反証しえないような事柄は科学ではないという考え方です。
この考え方を「態度」として援用すると、「間違っているかもしれない可能性」を常に考慮に入れつつ、今得られている証拠から総合して判断できる「最も有力な説明」を主張として採用するようなことが科学的な態度であるということができます。
一方、インターネットやマスメディアなどの討論においてしばしば現れる「科学的」という言葉は、「正しい」ことの代名詞として、一種の「権威」として用いられています。科学の衣を着ることで「絶対に私が正しい」と言わんばかりの態度を示す人もいます。
自分の言っていること、自分が依拠していることが、もしかしたら間違っているかもしれない――このような謙虚さと、反証・反論をいつでも受け入れる用意、そしてより確かな知を求めようとする追究心、このような本来の意味での科学的態度には、普段の生活を改める上で見習うべきところが多いように思います。
そのため、議論で対立する相手がいた場合に、「科学的でない」ということによって相手の主張を退けようとし、「科学的である」ということによって自己の主張を正当化しようとします。
しかし、科学的である=正しいという発想はそのまま受け入れてしまっても良いのでしょうか?科学的な態度であるとはどういうことなのでしょうか?これについて考えていきます。
科学はなぜここまで重きを置かれるようになったか?
そもそも、「科学=正しさ」と認識されるほどにまで科学が信頼を得て重きを置かれるようになったのはなぜなのでしょうか?ここで一つ気を付けるべきは、「科学」というのがもっぱら「自然科学(化学・生物学・物理学等)」を指す言葉として使われているということです。心理学・社会学などの社会科学も実際には科学の一分野ではありますが、日常的に私達が「科学」という言葉で理解する内容には含まれていません。まして、歴史学・文学・言語学などの人文諸科学などが含まれるはずもありません。
自然科学だけが「科学」として大きな支持を得ているのです。これはやはり、自然科学から派生して生み出された技術の普及が大きいと言えましょう。交通・電気・通信・機械技術など、誰にとっても目につくような仕方で生活を豊かにしてきたという実績が、「科学」への幅広い層からの信頼に繋がっているのだと考えられます。
また、歴史的には宗教など古くからの権威に対抗するための手段として、科学が機能してきたことも見過ごせない側面です。ガリレオが宗教裁判にかけられたり、ダーウィンの進化論に関して激しく論争が繰り広げられたりしたことは有名です。
現代においては特に国力増強の観点から科学が重視されます。科学がもたらした新技術は戦争の戦い方を大きく変え、また産業革命による生産性の劇的な改善の背景には常に科学的知見の進歩がありました。
中国の科学研究費は現在もアメリカに猛追する勢いで増え続けており(参考 : 経済産業省資料)、自国での科学の発展は国力増強の鍵と見なされています。
科学とは何か?
そのようにして重要視される科学の内実とは何なのでしょうか?科学の英語名である「science」という語は、ラテン語の「scientia」に起源をもち、元々は「体系づけられた知識一般」を指すものでした。「art」と並べられることもありますが、「art」は人間の編み出した知識・技芸を指すのに対して、「science」は自然に関する知識を指します。
「science」が現代の「科学」の意味で用いられるようになったのは、西洋の近代以降です。中世まではキリスト教的な色彩の強いスコラ学が権威を誇っていましたが、ルネサンス・宗教改革を経て、近代では「正しさ」の基盤が揺らいでいました。
フランスの思想家モンテーニュは生涯を通して"Que sais je?"(私は何を知っているのか?)と問い続けましたが、これはその時代のテーマでもありました。
正しい知識とは何か?
どうすれば正しい知識へ到達することができるのか?
このような時代的要請に対して、見出された方法は二つありました。一つは、自分の"理性"を頼りに数学的に世界を捉え直そうという方法であり、もう一つは"経験"を頼りにより確かな知を積み上げていこうとする方法です。
これは、それぞれ演繹法、帰納法と呼ばれます。
演繹法は、例えば「三角形の内角の和は180度である」という法則から、「三角形Aの内角の和も180度である」という結論を導き出します。
一方、帰納法では例えば「亀Aには甲羅がある」「亀Bにも甲羅がある」という経験的事実から、「すべての亀には甲羅がある」という一般的な法則、仮説を導き出します。
科学は、このうち特に帰納法に立脚した営みです。観察や実験を通じて得られた経験的事実から帰納法によって一般化された仮説を形成し、その仮説を確かめるための実験・検証を行います。
経験的事実 ⇒(帰納法)⇒ 一般的な仮説 ⇒ 実験・検証
科学と呼ばれているものの内実は、このような経験(観察・実験)の積み重ねと帰納法に基づく一連の営みといえます。
科学は「正しさ」を保証するか?
このような科学の営みから得られた”知識”は、確実に「正しい」ものなのでしょうか?結論からいうと、そうとはいえません。帰納法による導出は必ず論理の飛躍を含んでおり、厳しい検証を経たとしても、確実な正しさには到達し得ないのです。科学的な帰納法では、このカラスは黒い、そのカラスも黒い、ということから「全てのカラスは黒い」という一般化された仮説を導き出します。そして、その仮説の正しさを調べるために、カラスA、カラスB、カラスC…と多くのカラスを調べ上げます。調べていき、実際に調べ上げたカラスの全てが黒ければ、その仮説の"確からしさ"は上がっていきます。
しかし、どれほど多くのカラスを調べ上げ、「全てのカラスは黒い」という証拠を積み上げたとしても、確実に正しいとはいえません。どこかに白いカラスがいる可能性は否定できないからです。
科学的な態度とは何か?
このような科学の避けがたい不確実性を考慮に入れるとき、「科学的な態度」とは何を指すのでしょうか?20世紀の科学哲学者カール・ポパーは、科学と疑似科学を分けるものとして「反証可能性」を挙げました。つまり、ある主張・仮説が証拠によって反論できる場合には科学であり、反証しえないような事柄は科学ではないという考え方です。
この考え方を「態度」として援用すると、「間違っているかもしれない可能性」を常に考慮に入れつつ、今得られている証拠から総合して判断できる「最も有力な説明」を主張として採用するようなことが科学的な態度であるということができます。
一方、インターネットやマスメディアなどの討論においてしばしば現れる「科学的」という言葉は、「正しい」ことの代名詞として、一種の「権威」として用いられています。科学の衣を着ることで「絶対に私が正しい」と言わんばかりの態度を示す人もいます。
自分の言っていること、自分が依拠していることが、もしかしたら間違っているかもしれない――このような謙虚さと、反証・反論をいつでも受け入れる用意、そしてより確かな知を求めようとする追究心、このような本来の意味での科学的態度には、普段の生活を改める上で見習うべきところが多いように思います。