「さあ、その本を火に投げ込め」ー「確かなもの」を見極める重要性


ヨースタイン・ゴルデル著の『ソフィーの世界』では、イギリス経験論の哲学者デイヴィッド・ヒュームについても取り上げていますが、その中で次のような一節を紹介しています。

神学の本でも学校の形而上学の本でも 、なにかの本を手にとったら 、そこには大きさや数についての抽象的な思考過程が書いてあるだろうか 、と問うてみるべきだ 。書いてない 。事実や現実についての 、経験に支えられた推論が書いてあるだろうか ?書いてない 。だったら 、さあ 、その本を火に投げこめ 。なぜならその本には 、まやかしとペテンしか書いてないのだから

これはかなり大胆な言明に思えますが、背景として、中世の神学−キリスト教への厳格な信仰から解放され宗教改革が行われ、またコペルニクスやガリレオの科学的発見、大航海時代で得られた新たな知見などもあった時代だったということがあり、当時の学問界において世界観の大転換が迫られていたという事情があります。

このため、「我々は何に基づいて学問を進めるべきか?」「何が“確か”と言えるのか?」ということが哲学の一つのテーマになりました。その代表的な人物としてよく挙げられるのがルネ・デカルトで「コギト・エルゴ・スム(ラテン語で意味は「我思う、故に我あり」)」という言葉は有名です。

デカルトは過去の学問はあてにならず、「砂上の楼閣」の上に立っているようなものだと考えたため、一度全てを疑ってみて、それでも疑い得ない「確かなもの」として「自己」を見つけ、それをもとに学問体系を構築しようと考えました。

ヒュームもその流れを汲んでおり、その中で冒頭に紹介した言葉が発せられたのです。「本を火に投げ込め」−これは、世界観が大きく変わり何が確かなのか不透明な時代で正しい知を得るために必要なプロセスでした。

振り返って今の時代について改めて考えてみると、これもまた同様に「何が“確か”と言えるのか?」がわかりづらい時代になったといえます。技術の発達や国際交流の発展、個人の発言の尊重などから、人々はより情報を発信し、それを受信する機会もより多くなりました。その結果、玉石混交の情報も氾濫するようになり、「何が“確か”」なのかを見極める必要性が今まで以上に高まっているといえます。

不確かな情報が多くあったとしても、正しい判断や行動には繋がりません。一度、「本を火に投げ込」む気持ちで、周囲の情報が正しいといえるのかどうか、点検してはいかがでしょうか。