善についてーある中学生の哲学録


哲学は単に大学の教育課程で学ばれる一学問ではなく、全ての学問の基礎を問う思考の営みです。そのため、「確実だといえるものは存在するのか?」「世界はどのようになっているのか?」「生きているとはどういうことか?」「我々はどう生きるべきか?」など様々な問いが哲学のテーマとなりえます。

しかし、これらの問いは大人だけの専売特許ではありません。むしろ「人間ってどこから来たの?」など子どもが不思議がって抱く疑問に近しいといえます。

かくして哲学に"対象年齢"はありません。何歳でも始められます。その例として以下に、ある中学生の哲学録を紹介します。


善について


人間はどう生きるべきだろう?もちろん、人間は幸せになるべきでしょう。全ての人間が目指すべきもの、それこそが幸福です。

どうしたら人間は幸福になれるのだろう?僕は、この問いにこう答えます。つまり、人間が幸福になるには、二つの要素できまります。一つは、自分を自分として生きる事、自己の実現にあります。

そしてもう一つは、自分をより善く(良く)する事です。自己の実現も、この善を目指す事に矛盾するような方法で実現してはいけません。ここでは、善を目指す、という事について考えてみたいとおもいます。

「善い」という事は「快い」という事とは違います。 「善い」というのは、人をより幸せにする事です。「快い」というのは、人を幸せだと思わせる事です。例えば、タバコだったら、それは人を快くしてくれるものなので、幸せだと思えるかもしれませんが、本当は、幸せにはなっておらず、体に害を与えるものなのです。

本当に幸せになりたいと思う人は、快楽よりも善を求めるべきです。「この事をする事によって、より善くなるだろうか?」という考えのもとに行動する事は重要です。

そういった意味で、これは実践的な道徳の面もあるといっていいでしょう。善いというのには二種類あります。一つは、体を善くする事、動物的な幸福です。もう一つは、精神、もしくは心を善くする事、つまり、人間的な幸福です。体にとって善いというのは、健康で、心にとって善いというのは、例えば知的、正しい、優しいとか、そういった事です。

例えば、真実を知っている者は、虚偽で塗り固められた者よりも、幸せだと言えます。虚偽で塗り固められる事によって、心を快く保つ事ができるとしても、それは幸福とは言えません。たとえ知る事が苦痛であっても(例えば自分の病気の告知など)、本当の意味で、知らないよりも幸福なのです。なので、知るべきことがどれだけ自分に苦痛や絶望を与えるものであっても、知らなければならないのです。もちろん、プライバシーの侵害がいいと言っているのではありません。それは正しくないです。

それでは、こういった事を念頭に、「友達」という事について考えてみたいと思います。

「友達」という事を考えるのにあたって、まず友達とはどんな性質を持っているのか、という事について考えてみたいと思います。真の友達というのは、相手の幸福を願う者ではないだろうか?そうです。真の友達は、相手が幸福になるようにと願います。ここで一番注意すべき事は、相手に幸せだと思わせる事が真の友達のすべき事ではない、という事です。

つまり、相手に快楽を与える事が真の友達のすべき事ではなく、相手をより善くする事が、真の友達のすべき事だという事です。自分は友達をより善くする事ができているだろうか?と自問して、より善くするように心がけるべきだと思います。

自分は会った時よりも相手を善くできただろうか?善い影響を与える事ができただろうか?この考え方は、「友達」に限った事ではなく、さまざまな事に直面した時に、最善の道を選ぶのに役に立つと思います。それでは、ここでの考察をひとまず止めようと思います。

文章力という点ではまだ磨かれておらず、読みにくい箇所や説明不足の箇所は散見されますが、一つの哲学論として言わんとしているところは伝わるかと思います。人間の幸福の定義の一つに善を据え、快楽と善とを明確に区別することによって善の特徴付けをしています。このあたり、プラトン対話篇の『ゴルギアス』の影響が垣間見えます。

このような思考の過程を経て、この中学生は「自分は会った時よりも相手を善くできただろうか?善い影響を与える事ができただろうか?」と自問することの重要性を提示しています。この自問は、むしろ大人こそ必要とすることのように思われます。

「大人になって成長すればより正しいことを考えるようになる」という意識を人間は抱きがちですが、本当にそうなのでしょうか?中学生や子どもの紡ぎ出す思考に、時には本気で向き合ってみてはいかがでしょうか。