現代には様々な差別があります。人種差別、民族差別、性差別、社会的地位や財力に応じた差別、また障害者への差別などです。「差別は悪いことだ」というのは一般論として広く社会に受け入れられている考え方ですが、実際には差別はなくならず根強く残っています。
最近特に話題になっているニュースとしては、東京医大の入試で女性を一律減点していたというものがありました。このニュースの論点はいくつかありますが、その一つは入試における女性「差別」の問題で、この問題は様々なメディアで取り上げられ議論になりました。
それではなぜ差別が生じてしまうのでしょうか?これには差別をする側の人間の認識や価値判断から3パターンの状況が考えられます。
つまり、①差別が悪いことであるという認識、②自分の行為の差別としての自覚、③「差別をしない」ことへの高い優先度、の3つのいずれかが欠けることによって差別が生じるということになります。逆に言えば、その3つの全てを満たすことができれば差別を防ぐこともできるということです。それでは、そのうちの1つ目、「差別が悪いことであるという認識」についてさらに考えてみましょう。
このように、全ての国民は法の下に平等であり差別されない旨が日本国憲法に明記されています。憲法に規定されているのであるから、国民はそれを守らないといけない――これは至極真っ当な意見です。
しかし、「差別はなぜ悪いのか?」と疑問を抱く人に対して、あるいは「差別は悪くない」と信じている人に対して、「憲法に書かれているから悪い」という主張はどれほど有効なのでしょうか?「憲法に書かれていることを守らないのはなぜ悪いのか?」とまた疑問に思うのではないでしょうか?少なくとも、「差別はなぜ悪いのか?」という疑問に対する回答として十分であるとは私には思われません。
そのため、もともと平等権はキリスト教圏の色彩を帯びていました。欧米での人権思想の発展に大きな影響を与えたロックの『統治二論』の中にも、キリスト教の神が前提とされている箇所が散見されます。
つまり、平等はそのおおもとをたどると神の下での平等ということであり、キリスト教の文化を背景にした概念だったといえます。
こういう話をすると、「平等がキリスト教圏の文化で尊重されるものであるならば、日本の文化では特に平等を尊重する必要はないのではないか?」と考えてしまうかもしれません。しかし、もともとはある文化から生まれたものであっても、後に普遍性を獲得するということはありえます。平等の概念もその一つと言ってよいでしょう。
20世紀の政治学者ロールズの『正義論』の中では、社会的正義の原理を導出する思考実験を行なっています。ごく簡単に考え方を説明すると、
という条件下で社会のルールを決めます。そうすると最終的に各人が合意して辿り着くのは、①基本的な人権が全ての人に平等に与えられる、②全ての人に平等な機会が与えられる、③最も不遇な人々に対しての救済措置がある、という3つのルールになります。
つまり、「平等」の概念は、合理的な思考に基づいて、社会における重要なルールとして導かれるものであるため、尊重すべきものとみなせるということになります。
平等に価値を置き、多様な人達が活躍できる社会にすることで、社会はより豊かになり、様々な環境の変化にも対応できる―これが、平等が尊重されるべき最大の理由なのではないかと私は思います。
差別が悪いことである理由、あるいは平等が尊重されるべき理由、あなたはどう考えますか?
最近特に話題になっているニュースとしては、東京医大の入試で女性を一律減点していたというものがありました。このニュースの論点はいくつかありますが、その一つは入試における女性「差別」の問題で、この問題は様々なメディアで取り上げられ議論になりました。
なぜ差別はなくならないのか?差別を生じさせうる3つのパターン
なぜ、差別はなくならないのでしょうか?これを考えるには、なぜ差別が生じてしまうのかということへの分析を行い、有効な対策を講じることが必要です。それではなぜ差別が生じてしまうのでしょうか?これには差別をする側の人間の認識や価値判断から3パターンの状況が考えられます。
- 差別を悪いことだと認識していない場合
- 差別を悪いことだと認識しているが、自分の行為が差別であることを自覚していない場合
- 差別を悪いことだと認識しており、自分の行為が差別であることを自覚しているが、「差別をしない」ことの優先度が低く行為を防ぐに至らない場合
つまり、①差別が悪いことであるという認識、②自分の行為の差別としての自覚、③「差別をしない」ことへの高い優先度、の3つのいずれかが欠けることによって差別が生じるということになります。逆に言えば、その3つの全てを満たすことができれば差別を防ぐこともできるということです。それでは、そのうちの1つ目、「差別が悪いことであるという認識」についてさらに考えてみましょう。
差別はなぜ悪いのか?
差別はなぜ悪いのでしょうか?差別の廃絶を訴える人達がよく引き合いに出すのは、日本国憲法です。すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。(日本国憲法第14条第1項)
このように、全ての国民は法の下に平等であり差別されない旨が日本国憲法に明記されています。憲法に規定されているのであるから、国民はそれを守らないといけない――これは至極真っ当な意見です。
しかし、「差別はなぜ悪いのか?」と疑問を抱く人に対して、あるいは「差別は悪くない」と信じている人に対して、「憲法に書かれているから悪い」という主張はどれほど有効なのでしょうか?「憲法に書かれていることを守らないのはなぜ悪いのか?」とまた疑問に思うのではないでしょうか?少なくとも、「差別はなぜ悪いのか?」という疑問に対する回答として十分であるとは私には思われません。
差別と平等は表裏一体
それでは改めて、差別はなぜ悪いのでしょうか?差別の概念と表裏一体をなすのは、先の「法の下の平等」にもある通り、平等という概念です。そのため、差別がなぜ悪いのかという問いは、「平等はなぜ尊重されるべきなのか?」という問いに言い換えることもできます。平等はもともとは神の下での平等
では、平等はなぜ尊重されるべきなのでしょうか?まず、平等が尊重されるべきものとして社会的に受容されるに至った歴史を見直してみましょう。福沢諭吉の「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉に象徴されるように、平等権は日本では明治維新の際に欧米諸国から輸入された概念です。そのため、もともと平等権はキリスト教圏の色彩を帯びていました。欧米での人権思想の発展に大きな影響を与えたロックの『統治二論』の中にも、キリスト教の神が前提とされている箇所が散見されます。
つまり、平等はそのおおもとをたどると神の下での平等ということであり、キリスト教の文化を背景にした概念だったといえます。
平等を尊重すべき理由
こういう話をすると、「平等がキリスト教圏の文化で尊重されるものであるならば、日本の文化では特に平等を尊重する必要はないのではないか?」と考えてしまうかもしれません。しかし、もともとはある文化から生まれたものであっても、後に普遍性を獲得するということはありえます。平等の概念もその一つと言ってよいでしょう。
20世紀の政治学者ロールズの『正義論』の中では、社会的正義の原理を導出する思考実験を行なっています。ごく簡単に考え方を説明すると、
- これからの社会のルールについて自由で合理的な人々が話し合いの上決定する
- その社会でどの立場・役割になるかを各人は事前に知ることはできない
という条件下で社会のルールを決めます。そうすると最終的に各人が合意して辿り着くのは、①基本的な人権が全ての人に平等に与えられる、②全ての人に平等な機会が与えられる、③最も不遇な人々に対しての救済措置がある、という3つのルールになります。
つまり、「平等」の概念は、合理的な思考に基づいて、社会における重要なルールとして導かれるものであるため、尊重すべきものとみなせるということになります。
「多様性」の根拠としての平等
私はこれに加えて、「多様性を重視する社会は豊かであり、環境の変化にも強くなる」ということも「平等」の重要性の根拠になると思っています。人々の間の多様性を認めるためには、平等が根底になければなりません。差別して一定の人々を排除する社会では、多様性を認めることができず、固定されたレッテルばかりを信じることになります。平等に価値を置き、多様な人達が活躍できる社会にすることで、社会はより豊かになり、様々な環境の変化にも対応できる―これが、平等が尊重されるべき最大の理由なのではないかと私は思います。
差別が悪いことである理由、あるいは平等が尊重されるべき理由、あなたはどう考えますか?