「自分のものである」とはどういうことか?

私は月に一度お茶を習いに足利に行っています。東京-埼玉-群馬-栃木と4都県にまたがる移動ですが、実際のところ北千住から特急で片道一時間なのでそれほど遠いと感じることはありません。実家は群馬ですが、足利の隣町なのでほぼ地元に帰ることにもなります。

それはともかく、お茶のお稽古では様々な道具を使います。釜、風炉、水指、茶器、茶杓、主茶碗、替茶碗、蓋置、建水などなど、数多くの道具がお茶のお稽古には必要になります。


それらの道具には、茶杓は誰それの作、主茶碗は何焼などそれぞれ由来があり、お茶席でのお茶を振る舞う、いただくという一連の動作の中には、それらの由来ある道具への敬意が込められています。

こうしたお茶の空間に身を置いていると、道具というのは様々な方々から受け取りお預かりしているものだというような感覚になります。例えそれが購入したり譲り受けたりして所有権の上では自分のものであったとしてもです。

一方で日常に戻ってみると、「自分のものは自分が自由に使えるものだ」「どう使おうと他人に文句を言われる筋合いはない」といった考え方が社会に広まっている様子を見かけます。お金遣いの荒い人が、次々と高いものをを買っては、まだ使える古いものを簡単に捨てる様子を見聞きしたことがある人は多いでしょう。

こうした考え方は、実は個人の自由を重んじる人権思想の源流にまで遡ることができます。「人権」という考え方は西洋の自然権思想に端を発していますが、その先駆けとなったロックの『統治論』(あるいは『統治二論』)では、「自然の法の範囲内で自分の行動を律し、自分が適当と思うままに自分の所有物と身体を処理する」ことが人間が自然にもつ権利としています(『統治論』ロック著、宮川透訳、中公クラシックス、2007年、8ページ)。ロックは更に、所有権は他者との間でお互いに脅かすことはできないため、脅かした場合に処罰する権利も自然権としてもつとし、そこから相互の同意の下に社会を形成するとしています。

人権思想はこのように個人の所有権を根拠として成立しており、基本的に「自分のものは自分が自由にしてよい」と考えます。しかし実際に存在しているものは、お茶席の例にも挙げた通り、単に「自分のものだ」とはいえないようなものばかりのように思えます。

私の今手元にある、先ほど参照した書籍は、私が以前購入したもので所有権は私にありますが、これはかつてロックが書いたものであるという点では「ロックのもの」であるということもでき、宮川氏が訳したという意味では「宮川氏のもの」ということもでき、あるいは出版社である「中央公論新社のもの」であるということもできるかもしれません。このような多様な「~のもの」であるものが、単に所有権が自分にあるからという理由で全面的に「自分のものである」ということはできないのではないでしょうか?

更に考えるなら、自分の所有物にするための代価として支払った金銭も、元は別の誰かから得たものであったはずです。いや金銭を得るのは自らが労働したからであって私のものでない、というのであれば、その労働の環境を与えてくれた人や、自分が労働できる状態に至らせてくれた誰かにも想像を巡らせてみるとよいでしょう。

また更にいえば、様々な活動の原資となる自分の身体は果たして「自分のもの」なのでしょうか?今の自分を有らしめている由来は、親であったり、社会であったり、先祖であったりします。様々な由来や恩恵があって今の自分があるのであるとすれば、むしろ自分の身体や生命自体が、「自分のもの」として好き勝手してよいものではなく、「お預かりしているもの」として大切に扱うべきものとなるのではないでしょうか?

もし、あなたが「自分のものだから自由に使ってよい」という考え方に慣れているのだとすれば、一度立ち止まって、「本当に”自分のもの”なのだろうか」と考えてみるのもよいかもしれません。