接触の量の最大化から、接触の質(=コンテンツの質)が重視される時代へ
昨今のウェブマーケティングでは、"コンテンツの質"が特に重視されるようになってきています。なぜそのようになってきたのか、まずその背景を振り返ってみましょう。
インターネットの利用はここ20年で爆発的に増え、ウェブを通じたマーケティング手法がそれとともに増えてきました。
今では、ソーシャルメディアを通じてユーザーに簡単に接触することもできるようになっています。また、ネット上の行動データをマーケティングに活用することで、特定の興味・関心をもったユーザーにピンポイントに広告を出すこともできます。
つまり、マーケティング担当者がユーザーに接触しメッセージや情報を届けること自体はかつてないほど簡単になってきています。
しかし、それは同時にユーザーが目にする情報がかつてないほど多くなっているということも意味します。
情報が増えれば、当然1つの情報がもつ重みは下がります。接触できていてもユーザーに見過ごされる、あるいは気づいても興味を引かない、あるいは興味を引くことができてもすぐ忘れられるようになってきます。
しかも、ユーザーが積極的に情報の取捨選択を行うようになる中で、広告の効果も次第に弱くなってきています。広告を鬱陶しいと感じ広告ブロックするユーザーも増えてきました(2018年初頭にはGoogle Chromeでも公式の広告ブロック機能が搭載されました 参考:https://wired.jp/2018/02/22/google-chrome-ad-blocker/)。
以前はユーザーに接触さえできれば、多くの場合でマーケティング上の成果を上げることができたのですが、情報が増えてユーザーが情報をより主体的に選ぶようになってくると、接触機会を無理やり最大化して成果を上げることは難しくなってきました。
そこで代わりに重視されるようになった考え方が"コンテンツの質"なのです。すなわち、ユーザーに選ばれるような"良いコンテンツ"を作り、必要とする人に届けていくことで、自然にユーザーに興味をもってもらうことが、最終的なマーケティングの成果にも繫がると考えます。
イメージとしては、粗悪品を押し売り営業して売上を上げることから、商品の品質を高めることで着実に支持を増やすことに重点がシフトしたというのに近いかもしれません。より質の高いものが売れるようになる、というのは良い傾向であるといえます。
同じページでもユーザーによって変化する"体験"
それでは質の高いコンテンツ、つまり良いコンテンツとは何かというと、「ユーザーに良い体験を与えられる」コンテンツというのが最近よく用いられる説明です。そのため、「ユーザーエクスペリエンス」という語も良く用いられています。すなわち、検索してきた人、記事を漁り読んでいる人、動画を見ている人、SNSでの交流を楽しんでいるひと、それぞれのユーザーに対してコンテンツを通じて最高のユーザーエクスペリエンス(体験)を与えることが、ウェブマーケティングにおいてますます重視されるようになっているということです。
ところで、検索しているユーザーとソーシャルメディア上のユーザーとでは求めるものが異なるということは往々にしてあります。その場合、現在は同じページでも情報の出し分けが簡単にできるようになっているので、個別のユーザーに出す情報を最適化することが可能です。
PCからきた人かスマホからきた人かによって情報を出し分けたり、検索してきた人にはその求めているものを得るために必要な情報をシンプルに見せ、ソーシャルメディアから来た人にはシェアやコメントしやすい情報を見せるといった流入経路別に出し分けたりすることができます。
また何度も訪れているサイトでは、過去の履歴から最適な情報をおすすめしてくれる機能などもあります。
こうした機能を知らない人が、「こんな表示を出すなんてこのサイトは大丈夫なのか」とSNS上で発信して逆に自分が炎上するという事態も度々見かけます。周囲からは「そういう行動をこれまでしてきたからそんな表示が出るのだよ」と。
広告コンテンツの出し分けの場合、実際には行動だけでなく、ログイン情報(年齢、性別、地域)など様々な情報を加味して、自動化されたアルゴリズムによって表示が決まるため、問題のある表示が一概にユーザーのせいとは言い難いです。
一つだけ確かなのは、こうしたユーザーに応じた情報の「出し分け」によって、同じURLの同じページが、実際には全く異なる体験をユーザーに与えることがあるということです。
これはウェブマーケティングにおいて「コンテンツ」を考える際、重要なポイントになってきます。
モノからコト化されるコンテンツ
これまで、コンテンツといえば、新聞、雑誌や書籍などの文章やイラスト、画像、あるいはラジオ・テレビなどで放映された内容などを指していました。これらは世に出されれば多くの人に同じ内容が行き渡り、固定化された"モノ"として認識されます。このような認識が前提となって、論文や何らかの著作で引用する際には、引用箇所を明記します。「誰のどの著作の何ページ目を参照している」ことを明示することによって、著作者の権利を保護しつつ元情報の検証ができるようにしています。
しかし、これが電子書籍になってくると、「ページ数を明記」というわけにはいかなくなります。kindleなどの電子書籍は、端末や文字サイズに応じてページ数が変わってくるからです(これに伴い、論文の引用での対応は各誌によって異なるようです)。
また、Wikipediaなどのウィキサービスでは、情報を誰でもいつでも書き換えられるものであるため、引用した箇所の情報が後でなくなっているということも起こります。
極端に言えば、オンライン上のページは出し分け機能によってコンテンツをそっくりそのまま変えることも可能です。釣り好きと判断される人には釣りの人気スポットのコンテンツとして出しながら、パンケーキ好きには美味しいパンケーキ屋を紹介するコンテンツにすることもできます。
「このページをシェアする」という行為でシェアしたページは、もしかしたらあなたがシェアしようとしたコンテンツと全く別のものとして他人の目に映っているかもしれません。
そうなれば、今までのようにモノとして固定化されたコンテンツという考え方は通用しなくなります。
あなたにそう見えている、あるいは聴こえているというコト、それ自体がコンテンツなのであって、その先に実体として固定化されたモノを想定することは出来ないのです。
「存在するとは知覚されることである」
これはアイルランドの哲学者、バークリーの言葉です。今見ているリンゴは見ている間は存在しているが、見ていない間に存在しているとは言えない、なぜなら全ては心の中の知覚に過ぎないのだから、とバークリーは考えます。
日常的には、このようなことを私たちは想定して生活していません。リンゴは実際に存在していて、見ていない間にも変わらずそこにあり続けると考えます。
しかし、オンライン上のコンテンツに至っては、バークリーの言うように知覚に過ぎないのかもしれません。その先の実体、固定化されたモノを想定することは出来ず、その時・その人が体験したコトが全てなのかもしれないのです。
現象学的なアプローチでコンテンツを捉える
モノからコトへと変容を遂げたコンテンツというのは、何か雲を掴むような話にも聞こえます。コト化したコンテンツをどのように考えていくのが良いのでしょうか?「事象そのものへ」
これは哲学者フッサールの言葉です。フッサールは、現象の先にどんな想定や理論も、最初に打ち立てて考えることは出来ないとしました。
実体があろうがなかろうが、「私には今こう見えている」という現象だけが事実であり、その現象に立ち戻ることが重要なのだとフッサールは語ります。
これは現象学と呼ばれますが、このような視点が今後のコンテンツを捉える上でも重要なのではないかと考えます。
コンテンツに触れているユーザー1人1人にとって、そのコンテンツはどう現象しているのか、どんな印象を与えるのか、まずそこから始め、また何かにつけてそこへ立ち戻るのです。
このような視点をもつことによって、「コンテンツの質を改善する」といったことの意味合いもより定まってくるのではないでしょうか?
私自身、まだ考え詰めているわけではありませんが、こうしたアプローチを考えていくことにより、より良いコンテンツを広める仕組みを作っていくことができればと考えています。