猫を持ち上げるように哲学する

広尾にあるドイツ大使館の外壁は、その時々によって、様々な絵や写真で彩られています。現在は素敵なイラストがついた、ちょっとしたドイツ語講座になっています。


私がこの道沿いを歩いていると、ふとあるイラストが目に留まりました。


猫を持ち上げている女性のイラスト、その左上にはドイツ語で "Aufheben" (アウフヘーベン)と書かれています。

アウフヘーベン?と私は思わず見返してしまいました。哲学を学んでいる者にとっては非常に馴染みのある言葉だったからです。

そのイラストの下には、下記のような説明文が載せてありました。


これを読んで私は、かつて哲学の教授が「日本では哲学を専門の哲学用語で訳すが、西洋では日常の言葉をそのまま哲学でも用いている」という話をしていたのを思い出しました。

日本で哲学教育を受けた者はアウフヘーベンと聞くとヘーゲルの「止揚」の概念と認識する

日本で西洋哲学史をある程度学んでいる人は、アウフヘーベンというドイツ語を聞くと、「止揚」という訳語を思い浮かべます。

止揚は一般の人には聞きなれない言葉です。これは、ドイツの有名な哲学者ヘーゲルが提唱した弁証法における重要な概念です。

弁証法についてごく簡単に説明すると、これは議論やひいては物事全般における発展の過程を説明したものとなっています。その過程は、まず、第一の主張がなされ、次にそれに対立する第二の主張がなされます。第一の主張と第二の主張は激しく対立しますが、やがてそれらの良い面を取り入れた、より包括的な第三の主張に到達します。

ヘーゲルの止揚ーアウフヘーベンは、この第一の主張と第二の主張の中から第三の主張に到達する過程を指した概念となります。対立・矛盾が止揚されて第三の主張が生まれます。そしてその第三の主張自体もその対立仮説との間で新たに対立・矛盾する関係となり、それが更に止揚されていく、というのがヘーゲルにおける弁証法の発展の過程です。

日本で哲学教育を受けると、このヘーゲルの弁証法でアウフヘーベンという語を知ることになるため、「アウフヘーベン=ヘーゲルの弁証法における止揚の概念」と認識している人も多いと思います。


ドイツ人にとっては日常的な用語であるアウフヘーベン

一方で、大使館の壁に書かれた説明にもある通り、ドイツ人にとっての “Aufheben”(アウフヘーベン) は「持ち上げる」という意味の、ごくごく日常的な言葉です。それこそ「猫を持ち上げる」ように気軽に用いられます。

アウフヘーベンだけでなく、日本語では難解な哲学用語として訳される西洋語が、実際に西洋諸国では普通に日常会話で用いられる言葉だということは珍しくありません。「観念」として訳される語は英語では「idea」となりますし、「実存」は「existence」となります。どちらも英語圏では日常語として用いられる言葉です。


日本では、「止揚」などの哲学の用語は日常語から切り離され、むしろ難解になっている

しかし、西洋語に対応する日本語は非常に耳慣れないものが多いです。専ら哲学の議論をするためにのみ訳語が充てられ、日常語との連続性はほとんどないといって過言ではありません。哲学用語として日常語から切り離されてしまっているため、哲学用語に精通していない人たちの間で「止揚」や「観念」「実存」という言葉が飛び交うことはまずないでしょう。

これは、日本語で哲学することを非常に難しくしてしまっているといえます。実際、私は哲学書を読んでいて、日本語で理解しようとするよりも西洋語のままの方が理解しやすいと思うことがこれまでに何度もありました。

例えば、デカルト哲学において「明晰判明」という用語がキーワードの一つとして出てきます。「明晰」と「判明」はいずれもそれほど難解というほどの語ではないかもしれませんが、私には当初、なぜそれら2つの言葉が並ぶのか、それぞれどう違うのか、あまりわかっていませんでした。

しかし、フランス語で ”clair et distinct” と表記されているのを見たとき、「明晰(clair = clear)」は「澄み渡るように明らかである」ということ、「判明(distinct)」は「他と明確に区別できる」ということとして、私はその違いを初めて理解できました。

このような例は哲学をしていると枚挙に暇がありません。西洋語では平易な言葉が用いられているにも関わらず、日本語では難解になってしまっているのが日本における哲学の現状で、このことは日本で哲学することのハードルを上げてしまっているように思います。


日本でも日常語で哲学できるか?

もちろん、このような事情となっている背景もあります。日本に西洋から哲学の考え方が最初に輸入された時、日本語でそれをどう訳すかが問題になりました。ぴったりと当てはまるような言葉がなかったのです。そこで、西周などの手によって西洋哲学の概念に対応する多くの言葉が新たに造られました。

「哲学」という言葉自体、元々日本にはなかった言葉です。元々ギリシア語で「知を愛し求める」ことを意味していた「philosophy; Philosophie」を、西周が最初に「希哲学」と訳したことに始まり、そこから最終的に「希」が取れて現在の「哲学」という訳語が定着したのです。

このように、西洋哲学の概念を輸入することによって哲学に触れてきた日本人は、輸入品にキズがつかないように哲学用語という包装で大事に包んで扱ってきました。今でも大学で哲学を研究しようと思えば、まずは西洋の有名な哲学者について研究するのが一般的です。そうした場合、輸入品である概念が元の意味から崩れてしまっていたら困るのです。

こうした輸入を続けた結果、日本における哲学は、一部の人のみに閉ざされ、日常から切り離された営みとなってしまっています。

私は、本来哲学は日常を生きる人たちにこそ必要なのではないかと考えています。毎日を現れ出る様々な問題に立ち向かいながら過ごして生きている人たちにとってこそ、「そもそも何が大切なんだっけ?」「これはなぜなのだろう?」と、たまに立ち止まって深く考えてみることが貴重な時間となります。

「哲学の思考は輸入された特殊なもの」と考える向きもあるかもしれませんが、本来、哲学の問いは誰にでも立てることができ、誰にでも考えることができるものです。であればこそ、日本でも日常語で哲学することはできるはずです。それこそ、猫を持ち上げるように。

実際、哲学用語について何も学んだことのない子どもであっても、哲学の問題を考えることはできます。下の動画(プレビュー)は、フランスの幼稚園児に対して実施された哲学の授業風景についてまとめられたものです。



※全体版は下記からAmazonPrimeでも観ることができます(レンタルに400円かかります)。

>>『ちいさな哲学者たち(字幕版)』(2011年)


また、日本でも同様に子ども向けの哲学対話をする取り組みが少しずつですが、広がってきています。

p4c-japan | philosophy for children 子どものための哲学
こども哲学おとな哲学アーダコーダ
Q~こどものための哲学[小学3~4年]|NHK for School

このような活動が広がっていけば、立派な包装で大事に包まれた展示品のような哲学ではなく、猫を持ち上げるように日常的なこととして日本でも哲学できるようになっていくのではないか、と考えています。