碑銘を刻むように生きる

どのような人にでもいつかは「死」が訪れますが、まだ生きている人の死やその前後について話題になることは一般的に少ないです。その背景には「そんな不吉なことについて考えるなんて縁起でもない」という考え方があったり、暗い雰囲気にさせたくない、心配をかけたくないという気持ちがあったりします。

その結果、「死」について考えたり語り合ったりする機会もないまま、いざ「死」が家族の誰かに差し迫った時に揉め事になったりすることもあります。この間ツイッター上で話題になっていた下記のツイートもその例と言ってよいでしょう。



これは誰かを悪者とすれば解決するような問題ではなく、「死」を意識的・無意識的に遠ざけている社会的な風潮によって、結果的に死に関わる様々な問題が医療や介護の現場に追いやられてしまっていることが背景にあるのではないかと思います。

こうした状況を踏まえると、死について早い段階から考えたり周囲の人と話し合ったりする必要があるという考えに至ります。私はさらに、死について考えることは日々を生きていく上でも重要だと考えています。

ヨ―スタイン・ゴルデルの『ソフィーの世界』には、死に関して次のような一節があります。

ソフィーは砂利道に立ったまま考えこんだ。わたしはいつまでも生きているわけではない、ということを忘れようとして、いっしんに、わたしは生きている、とだけ考えようとした。けれどもまるでだめだった。わたしは生きている、と考えれば考えるほど、この命はいつか終わる、という考えもすぐに浮かんでくる。その反対でも同じだった。わたしはある日すっかり消えてしまう、と強く実感して初めて、命はかぎりなく尊い、という思いもこみあげてくる。まるで一枚のコインの裏と表だ。ソフィーはそのコインを頭のなかでいつまでもひっくり返していた。コインの片面がくっきりと見えれば見えるほど、もう片面もくっきりと見えてくる。生と死は一つのことがらの両面なのだった。
(『新装版 ソフィーの世界 上 ―哲学者からの不思議な手紙』(ヨースタイン・ ゴルデル, 池田 香代子, 須田 朗 著) より、参照箇所)

生と死は切り離せない――本当にその通りです。だからこそ、自分の人生をより良く生きるためには「死」についても考えていく必要があると思います。

これの一つの試みとして、「碑銘を刻むように生きる」ということがあります。碑銘とは、墓石に刻まれる短い文です。碑銘には、その人の人生を象徴するような言葉が刻まれます。

ここで一つ質問です。

あなたが亡くなった時、あなたの碑銘にどのような言葉が刻まれているでしょう?あるいは、どのような言葉が刻まれていて欲しいですか?


19世紀を生きたセーレン・キルケゴールという哲学者の記念碑がデンマークのギレライエという場所にあります。その記念碑には、「イデーのために生きることをおいてほかに何があろう」という言葉が刻まれています。


この「イデー」とは、キルケゴールにとって「自分がそのために生き、そのために死んでも良いと思うような使命」のことを指します。

この碑銘の元になった日記の文章を書いた後、キルケゴールは自らの"使命"のために、残りの人生を賭して当時の社会に対して孤独な戦いを挑むことになります。

キルケゴールは、記念碑に刻まれていた言葉の通りに生き、そして亡くなりました。キルケゴールが送った人生は幸運に恵まれてはいなかったですが、その生き方は少なくとも「自分の人生を生き切った」と言えるものであったと思います。

現代においてキルケゴールと同じような生き方をするのは難しいかもしれません。それでも、「自分の墓にどのような碑銘を刻みたいか?」と問い、考えることは、自分の人生にとって本当に大切なことを浮き彫りにしてくれると思います。

自分の碑銘を自分で考え、その碑銘を刻むように生きる――限られた人生の時間の中では、できることも限られています。自分の人生にとって何が大切なのか、碑銘について考えることで見つめ直してみてはいかがでしょうか。